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趣味のやめどきは、その趣味を楽しめなくなったとき

趣味のやめどきは、その趣味を楽しめなくなったとき

<2017.10.13>


趣味でアート系の作品を10年以上作り続けてきて、でもしばらく制作をしたくない状態が続いているという記事(「人間関係や趣味の断捨離。やめどきっていつだろう」)を書いたことがあった。

所属していた団体を辞めて、そろそろやめどきなのかとも思いつつ、それでも制作はもう少し続けてみたいと記事では結んでいる。

結論から言うと、もう制作はしていない。

始めたばかりの頃は、制作がただ楽しかった。稚拙でも、無心で向き合って、作品という形になることが喜びだった。その気持ちが戻って来ることを期待していたが、その感覚が戻ってくることはなくて、結局はやめてしまった。

あのとき、もう少し制作を続けたいと書いたのは、未練だったのだろう。制作の道具はまだ処分していないから、時折それらを目にするたび、胸がちくりと痛む。

ただ好きという純粋な気持ちで始めた趣味だったが、いつしか作品を作ることは、自分の承認要求を満たすためのものに変わった。
作品を作りたいという気持ちより、人から褒められたい、認められたいという気持ちの方が大きくなってしまった。

人が認めてくれそうな作品を作ろうとすると、自分が作りたかったものからはどんどんかけ離れていくし、そもそもどういうものを作りたかったのかさえ分からなくなる。自分の本質から離れたものは、熱量もないし、誰の心も動かさない。
楽しいという気持ちはなくなって、展示会があるから作業をしているという感じになった。なんだか、その趣味全てが億劫になった。

人より秀でたものを何か得ることで、この世界に何とか居場所を作ろうとしていたのだと思う。
ささやかな自尊心を持つことができれば、それを足場にして人と関われるかもしれないという幻想があった。逆を言えば、才能がない自分は価値がないように感じていた。何もできないというコンプレックスが私を駆り立てていた。

だけど、作品を作り続ける才能も、好きという情熱も、私には欠けていた。一緒に制作を続けていた仲間も去り、ますます続ける意味は失われていく。

そしてそんな風に、人より何か秀でるものがなくても、人と関わることはできる。

それがわかるようになったのは、制作から離れて、自分のダメさ加減を受け入れるようになってからだ。自分を受け入れられると、他者からの承認はそれほど必要ではなくなる。

他の人に認めてもらう必要がなくなると、ますます制作からは遠のいていく。しがらみがなくなって初心に返れるかというと、一度失ってしまった熱意は戻らなかった。

やはり私には、作らずには生きていけないというアートに関わる者としての切実さが、元々欠けていたのだろう。

展示会が近づいて追い立てられるように制作していた頃が、嘘のようだ。勝手な話だが、知り合いの展示会に行くこともめっきり減ってしまった。素晴らしい作品を見ても、気持ちが動かない。本当に自分の中で終わってしまった。

趣味を純粋に楽しめなくなったとき、それはやめどきの合図なのではないだろうか。





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