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誰かのために選択し続けるということ

誰かのために選択し続けるということ

<2017.5.3>

他人のために選択し続ける人がいる。
例えば、思春期を過ぎた子供の為に、よいと思われる進学先や就職先を探そうとする母親。
例えば一緒に暮らす恋人の為に、時間はこう使ったらいいとか、ジャンクフードは取らないでこっちを食べた方がいいとか、あれこれ世話を焼く彼女。

子供が小さい頃は、まだ物事の判断がつかない子供の為に、転ばないよう怪我をしないよう母親があれこれ正しいと思われることを教えるのは、愛情だった。
けれど、子供がある一定以上になると、それは愛情ではなくなる。母親が示せるのは、母親本人が正しいとかいいと思う一つのモデルでしかない。
あくまでモデルは一つのモデルであって、絶対的な答えじゃない。別の人間なら、また違う選択がある。

選択は結果を伴う。いい結果にしても悪い結果にしても、その選択の結果を受け取るのは本人だ。
その時は失敗して痛い目を見ても、次からはやらないようにしようとか、結果に対する対処法を見つけていくことができる。

間違わないこと、失敗しないことが大事なのではなくて、自分で考えられるようになることの方が大事だ。
母親が示したモデルを一旦、自分の中に取り込んだ後、それを選択するのかしないのかということを自分で咀嚼していかなければいけない。

誰かの為に選択し続けると、正しい道に導いているようで、結果を引き受ける人間が結果を受け取る機会を損失させる。

よかれと思ってその人の代わりに選択し続けていると、人は自分で選択しようとしなくなる。
依存してしまったり、間違うことを極度に恐れるようになったり、自分に選択権があることに気づけなくなってしまう。

正しい答えを教えてあげることが愛情だと思っている人間には、それがわからない。

アドバイスを求められたときはこういう考えもあるよと、ゆるゆる指し示したり、自分でそれを行動することによって、相手に見せて気づいてもらうことはできる。
けれどそれ以上立ち入ってはいけない。それはその人の領域で、それがその人の学びになっている。

人が本来持つ生きる力を奪ってしまってはいけない。自分で選択できることを忘れた人間は、ずっと自分の代わりに選択してくれる人を探して苦しむ。

ただ見守るのは、もどかしいことだと思う。
みすみす失敗するのをただ見守るのは、愛情がないように感じるかもしれない。けれどその人の選択を尊重して、転んだときに一緒に嘆き、成功したときには一緒に喜ぶのが、本当の愛情ではないだろうか。もどかしくても見守ってあげられるかどうか。

相手のためと言ってずっと選択し続けるのは、ただの干渉にすぎない。
その人から頼られ必要とされることで心理的に優位に立ち、自分の自己重要感を上げようとするなら、その人を単に自分の為に利用しているにすぎない。

その人が持つ生きる力を信じてあげることこそが、「信頼する」ということではないだろうか。




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