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人に防衛的である限り温かな関係は築けないのだろうか

人に防衛的である限り温かな関係は築けないのだろうか

<2018.9.26>

「人に防衛的である限り心からの温かな関係は築けない、それは自分が結局自分を嫌いだから」というメールを戴きました。
ご自分に対して、厳しい見方をされていて、とても苦しいだろうなと感じました。許可を戴きましたので、それについて、私が今時点で言えることを少し書いてみたいと思います。

人と接するとき、周波数というのか気というのか、あるいは波動というのかはわかりませんが、何かエネルギーのようなものを放出して、互いにコミュニケーションを取っているのではないかと思います。

そのエネルギーが柔らかいものであれば相手も無意識下で心地よいと感じるし、怒りや嫌悪や、過剰に防衛的な刺々しいエネルギーであれば、相手も無意識下で居心地の悪さを感じるでしょう。自分がリラックスして接したとき、相手の態度も変化するといったことは、実際にあると思います。

だからといって、防衛的である限り心からの温かな関係は築けないかというと、必ずしもそうは言えないような気がします。

なぜ人が自己防衛をするかというと、それは自分を守る為でしょう。
どんな人に対してもオープンでいるという事は、恐ろしいことです。相手がどんな人だかわからないまま、自分をさらけ出せば傷つきます。相手の心の健全度が落ちている場合には、なおさらそうでしょう。
生きづらさに悩んでいる人の多くは心に傷を抱えている人だと思います。そういう人がいきなり様々な人に対して自己開示すれば、更なる傷を増やすことにもなりかねません。

だから、防衛的であることが必ずしも悪いことだとは言えないと思います。
防衛的であることが悪いと決めてしまうと、そうしている自分自身もまた悪いことにしてしまうのですね。

ここで考えたいことは、すべての人に対して開かれた自分でいることではなくて、相手との関係性やシーンによって、防衛的にふるまうかどうかを自分が選べるようにするということです。そのときどきに応じて、ガードをするときはガードし、緩められるときには緩めるという感じです。

家族や友人や恋人等、関係が近い相手には、気負わずに付き合えるものです。
その延長で、好感を持てそうな相手に少しだけ近づいてみるのは、どうでしょうか。

何でもそうだと思いますが、上手にやろうと力みすぎると、あまりうまくいかないものだったりします。
温かな関係を築こうとか、そういうことを一旦棚上げして、目の前の物事を相手と一緒に楽しむ。相手に軸を置くのではなく、目の前の行為そのものに軸を置いてみる。好きなことをしているとき、自然に気持ちは和んでいきます。楽しい気分でいるとき、人は頑なに自分を守ろうとはしなくなります。

誰かと一緒でなくても、興味のあることを夢中でやっていると、そのエネルギーに惹かれて人が集まってくることもあります。

そのとき、結果を急ぎすぎないことも大事かなと思います。
結果を求めてしまうのは、心の傷がそれだけ深いということなのでしょう。だから早く楽になりたいと思うのは、ある意味当然のこと。けれど、性急に結果を出そうとすると、却って遠回りになることもあります。

頭が痛いとき頭痛薬を飲んだとして、薬が効くのを今か今かと待っていると、効きにくいといったことがあります。頭痛のことを一旦棚上げして、何か別のことに集中しているといつのまにか治っていて、不思議に思ったりします。

集中を別なところに向けるというか、思いつめていないときに、事態が変化することがあります。
それが多分「手放す」とか「執着しない」ということだと思うのですね。渦中にいるとなかなか気づきませんが。

それともう一つ考えてほしいのは、人間関係がうまくいかなかったのは、属していた集団のせいではなかったかということです。
以前の記事(「集団に状態の悪い人がいると、集団全体の状態が下がる」)にも書きましたが、集団の中に心の健全度の低い人がいて、その人が集団全体に影響を及ぼす人であった場合、集団としての健全度が下がるといったことがあります。

集団の中で人の悪口が絶えないとか、いじめがある場合には、その集団の状態がかなり落ちいていると言えます。そこに嬉々としていられる人は、その集団のカラーが合っているということです。逆に馴染めないのは、その集団が合っていないということです。
集団の状態が落ちていなくても、エネルギーのカラーが自分と全く違う場合にも同じようなことが起きるでしょう。

コミニケーションがうまくいかないのは、自分はそこの集団が合わない、そこが自分の居場所ではないことを自分が自分に無意識のうちに、一生懸命証明している場合もあるのです。

コミュニケーションは双方向のものなので、自分では自分だけが悪いと思っても、そうでもないのですね。

あまりに自分とカラーの違う場所にいるのは辛いものなので、離れることが可能であれば、離れてみて、別の集団に入ってみるのもよいのではないでしょうか。もしくは、元の集団に属したまま、別の集団に入ってみる。

属していた集団を離れると、そこでは当たり前だった価値観が実はそこでしか通用しないものだったということがわかることもあって、はっとさせられます。

人間関係がうまくいかない責任の所在を、自分だけに求めなくてもよいのではないでしょうか。
責任の所在を自分だけに求める生き方は、苦しい。歯を食いしばるような努力は、続かないし、自分を追いつめれば、ますます行動を起こすのが難しくなります。それは機会損失、自分でチャンスをつぶしているようなものです。

自分の人生を歩んでいくのは自分なので、自分が楽に生きられる方法や考え方を取り入れた方がいいと思うのです。そこには、冒頭の「自分を嫌う」ということが密接に関わってきます。

長くなりましたので、そのことについては、別記事(「自分を好きにならなくては」と考えるのが苦しいなら、それを一旦忘れてもいい」)にまとめたいと思います。





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